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 楠森堂のお茶づくりは、今から約二百年前の江戸時代末期から始まりました。現在お茶園のある大野原台地(浮羽町山北)一帯が火山灰の酸性土です。

今から約9万年前に熊本の阿蘇山が大噴火し、その際に発生した大火砕流は九州全土に到達する程の大規模なものでした。大野原台地の土壌はその時に形成されました。酸性の強い土壌では農作物が育ちにくく、さらに水も無い土地であったことから昔から産業も無く、人が暮らしていくには極めて厳しい地域でした。河北家二十一代「河北太郎衛門 永重」(〜1819)が当主の時代に、この地で雇用を創出するため、地域の多くの人達とともに土地を切り拓き、酸性土でも育つ「茶」を植えたのが始まりと伝え聞いております。
大正十二年、当時の二十五代目当主「河北 俊義」(旧 山春村<現 浮羽町>村長を務める)が楠森製茶場を創設し、本格的に創業を始めました。茶栽培先進地の静岡県から茶の技師を招き、当時の先端技術を積極的に取り入れ機械の増設や改良に努め、昭和八年には農林省指定の模範工場に選定されました。

当時の栽培面積は十町歩(約 10ha)、そのうち玉露茶園二反歩(県農事試験場委託試験地)、県指導茶園五反歩、県指定採種茶園七反歩など、国や県の試験茶園としても活用されていました。
最盛期には栽培面積を最大十二町歩(12ha)にまで広げ、当時単独所有でのその茶園の規模は、県内はもとより国内の茶生産地のなかでも最大級の栽培面積を誇っていたといいます。
また製茶業の他に、農林業、酒造業(清酒・焼酎を生産)を営み、地域の多くの方が生産に携わり、地元の雇用を支えていたようです。

しかし、戦後の高度経済成長期で多くの人が外に働きに出始め、さらに農作物全般の品種改良や栽培技術が進むことで収穫時期が変化し、手の空く時期にお茶の生産に携わるという形態が続けられなくなりました。また、茶の試験場、研究機能が鹿児島県や八女(福岡県)に新設されることを機に、人材の流出、高齢化が進み、他の茶の生産地では品種化や設備の近代化が急速に進んでいるなかで、当製茶では後継者などの問題もあったことから、品種化や設備の更新も行われず茶園は縮小の一途をたどりました。そのため今では全国的にも極めて希少となった「在来種」が偶然にも残る結果となりました。

現在の栽培面積は最盛期の半分以下の面積5ha。その多くが国内では極めて希少な日本古来の実生在来茶園です。

楠森堂の在来茶園の面積は、国内に現存する在来茶園のなかでも最大規模であるといわれています。

今から千数百年前に海を渡った僧達が持ち帰った茶の種子…
その種子を蒔いて我が国での茶の栽培が始まり、そして日本各地に広まりました。

昭和から平成にかけて沢山の茶の品種が開発されましたが、そのすべての品種は在来種が原点となっています。

何千年もの永い時の中で自然交配を繰り返し生み出された、様々な貴重な固有種の茶樹が混在する実生在来茶園…
何百年もの間日本人が飲み親しんできた在来種のお茶…

茶の品種化に伴い、現代のお茶の原点でもあり、また歴史ある日本古来の在来茶は粗末に扱われ、国内から消滅しつつあります…


様々な要因が重なり奇跡的に残った楠森堂の実生在来茶園。
 
この貴重な茶園をなんとか後世に残したい、昔ながらのお茶の味わいを沢山の方に味わってほしい…という想いから、平成十八年から荒廃しつつあった在来茶園の再興に取り組んでいます。
製茶技師 溝口氏 昭和初期の製茶加工風景
昭和10年 撮影 昭和11年 撮影
楠森茶園(牛車による輸送) 楠森茶園 茶摘み(昭和初期)
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